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2010年12月 1日 (水)

無門関・自序

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   禅宗無門関自序

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   原著者(無門)の序文

「かなめは仏と心、無門が法の門」---------門がないとなると、サテどこをどう通るか?
こうも言うてある。「門から入るは宝でないぞ、世のでき事はやがて破れる。」こういう説き方は、なぎの日に波、玉のハダにキズのよう。まして言葉にこだわり、センサクするとは! 棒で打つ月、カユいのに靴、とどきはしない。わたしは、紹定元年の夏、温州の龍翔寺をあずかり、僧たちがおそわるので、昔からの問題を取りあげ、入門の手だてとして、それぞれみちびいた。弟子たちが書きとってしまい、いつしか本になった。あとさきの順もなかったが、みなで四十八まとまり、[無門関]と名をつけた。もしも男いっぴき、いのちを捨てて、ふりかざして行けば、八本ウデのナタ太子も敵でなく、たとえばインドのダルマ、中国の慧能でも、恐れいって「お助け」と言う。もしグズついていると、窓べを過ぎる馬のように、まばたきする間に、見うしなってしまう。

 歌に---------
    真理に門なく、
    道こそさまざま。
    この関とおれば、
    足音高らか。

----------------- 思い出すこと ------------------

 悟りに到る方法について、第一則・趙州狗子で

妙悟ハ心路ヲ窮メテ絶センコトヲ要す、(中略)三百六十ノ骨節、八万四千ノ毫竅ヲ将ッテ、通身ニ箇ノ疑団ヲ起シ、箇ノ無ノ字ニ参ゼヨ。昼夜提撕(テイゼイ)シテ、虚無ノ会(エ)ヲ作スコト莫レ、有無ノ会ヲ作スコト莫レ。 箇ノ熱鉄丸ヲ呑了スルガ如クニ相似テ、吐ケドモ又吐キ出サズ、従前ノ悪知悪覚ヲ蕩尽シ、久々ニ純熟シテ、自然ニ内外打成一片ナラン

この部分を、魚返訳では

悟るためには行きづまらねばならぬ、(中略)三百六十の骨ぶし、八万四千の毛穴、全身をもって疑い、[無]の意味を知れ、よるひるひきしめて、[虚無]にも落ちいらず、[有無]にもかかわるな。焼けた鉄のたまをのんだようなぐあいに、はき出すこともならず、これまでの無分別をとろかし、だんだん練れてくると、しぜんに内もそとも一つになる。

としています。
 私はソフト製作を正業(なりわい)としていますが、いつも思うのは、ソフトのプログラマムのバグ取りは、この公案解決の過程によく似ているのではないかということです。ウンウンと考えて、重い扉を押し続けているといつか、やっと答えが分かってその扉がスーッと開いて仕事が次に進むわけですが、それが何だか公案に取り組む過程に似ているような気がするのです。

 とんでもない話で、「坐禅は無念無想を目指すもので、公案だって頭で考えて解かる問題ではない」と御師家さんに怒られそうですし、こんなことを書くと、坐禅愛好家によるブログ炎上が起こる可能性だってあります。
 しかし、そうでもない、ソフトのバグ取りは公案解読の過程と大変似ていると思わせる文章にでくわしました。
 詳しくはhttp://www.alles.or.jp/~thisida/picusb89.html
を見てもらいたいのですが、この人は自作の装置が、あるマイコンでは動作するのに、それと同種のピン数の少ないマイコンでは動作しない原因を2,3ヶ月かけてエンエンと追求するのです。あるサンプルプログラムでは動作するのですが、他人の借り物ではしょうがない、それは敗北主義だといって頑張るのです。以下が引用です。

人には不思議な力が備わっているようです。
ある種のパワーのようなもので、それは普段は隠れていて表には出てこないのですが、ここ一番、という場面で突如として力を発揮する、ということがあるようです。
火事場の馬鹿力とか、コケの一念などと言います。
人の一念岩をも通す、という言葉もありますですね。

前にも何回か書いたことがあります。
考えて考えて考え抜いて、もう駄目だ、これ以上はどうすることもできない、というぎりぎりのところまでいったときに、そこからもう1歩先に踏み込みますと、突然、霧が一気に晴れて、急転直下全て解決してしまう、ということを何回も経験しております。
そのぎりぎりのところまで、問い詰めていく、考え抜く、ということが大切なことなのだと思います。
もう駄目だ、とあきらめてしまう、そのもう1歩先にこそ、解決の道が用意されているのだと思います。

なんだかだんだん神がかって、まいりますですねえ。
やっぱり、あれだ。
ぼちぼち、お迎えが近いかもしれんぞお。

これもいやというほど何回も書いたことなのですが。
こと記憶力については保証付きで絶対に誰にも負けてしまう、という?おかしな自信があります。
神経衰弱というゲームがありますが、あれが全然、まったく、からっきし駄目なのですねえ。
たった今めくったばかりのカードなのに、伏せてしまうと、もうわかりません。

そういう私なのですけれど、今回の、もう駄目だ。どーしようもない、というところまできましたときに、不思議な力が突然出現したのでありますよ。 (中略)

そのとき、突然、頭の隅で、声がした…。
ような気がいたしました。

どこかで、たしかどこかで。
「PIC18F14K50に限り…」
という文章の断片を見たような…。

とあります。
 サンプルプログラムを有料ソフトで逆アセンブラをし、その再構成までやってその原因を追究するのですが、このことの分かった解答が、同じPIC*というマイコンに関わってきた私にはまことに深く同感できるものでした。
 それはともかく、このバグ解決に関する文章が「妙悟ハ心路ヲ窮メテ絶センコトヲ要す」で始まり「自然ニ内外打成一片ナラン」まで続く文章に、大変似ているとは思いませんか。

 もう一つ、’公案の解答’とか’悟り’とかは、体が充実感に満たされるとか、オーム真理教の主張するような光が目の中に見えるとか、空中に浮いた感じがするとか、の只のインスピレーション的なものではなく、非常に実証的なものだということも、この引用した文章の言おうとしていることと一致すると私は思います。

  参照 無門関後序

  A15g003 解説

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