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2010年10月22日 (金)

第五則・香嚴上樹

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      五   香厳と木のぼり

 香厳さまがいうには、「人が木にのぼり、枝をくわえて、手ではつかまれず、足もかけられぬ。下から人が、禅の意味をきく。答えないでは相手にすまぬし、答えたらこっちのいのちがなくなる。こういう場合に、どう応対する。

  無門がいう---いくら口が達者でも、役にはたたぬ、お経をまくしたてても、これまた無用。もしこのところで答えられたら、死んでいたのも生かされ、生きていたのが死なされる。それができねば、気ながに待ってミロクにきけ。

 歌に---
    香厳こそ狂言、
    めいわくな世間。
    坊ずも舌をまき、
    目をむきハテけげん。

-----思い出すこと------

  この公案は、人間の言葉では、本当のことは伝えられないということを表現していると思います。

 東北大震災が3月11日に起こり、よく被災者の心のケアということを言います。しかし実際問題心のケアって一体何でしょうか。落ち込んでいる時に慰められて、いっそう落ち込むとか、哀しいときになぐめられて、かえって大泣きしてしまうこともあります。人を慰めたり、励ましたりするくらい難しいことはないというのが実際のところです。
 何か物資を届けることのみならす。具体的応援につながる行動の方が大事なのは確かなことです。

 心のケアという考え方自体、欧米から来たもので、ギリシャ神話で神様が男に勇気をフッと吹き込んだらパッと元気になったとか、乙女に恋心を吹き込んだら急に好きになったとかいう超単純な発想から考えられたものです。
 キリスト教がなかなか日本に普及しないのは、’懺悔’というものが日本人になじまないからだと言われています。自分にやましい行為してしまったという心の傷を話せば神が許してくれるという考え方が、普通の日本人の心の傷をなるべく人に話さないで、時間の経過によって自分の中で昇華しようという姿勢とは正反対のものだからです。”私はその時、悪心で友に対した”などと他人に言ってもどうにもならないことだと日本人は思っているのです。

 長崎の小学校で女子生徒が同級生の首を切り落とすという事件が4,5年前にありました。その時、同級生の心のケアということが盛んに言われましたが、具体的に一体どういう指導をするのだろうか、と思いました。子供に「趣味に打ち込みなさい」とか、「事件を早く忘れて、勉強にはげみなさい」とか言うのだろうか。自分が子供だったら「バカにするな」と心の中で思うだろうな、と思ったものです。
 あの事件でもっとも大きなことは、担任の先生がすぐ転校を願い出て、その子供達から逃げてしまったことです。自分には責任がないからということでしたが、一緒に悩み、一緒に行動してやるのが大人のできる唯一のことだったはずです。
 案のじょう、女史校長先生が「ある生徒がこのときすぐ報告しなかったから」と会見で発言した結果、その生徒が卒業後ノイローゼになり、引きこもり勝ちな性格になってしまい、まっすぐ上に向けないという状態になったため、親が裁判に訴えるということになりました。
 その生徒に先生達が再訪して、「そんな事はないよ」と声をかけることさえしようとしなかったのです。何が心のケアだったのでしょうか。

 この公案は、真理というものは口では言えないものだといっているような気がします。軽々しく人の心を取り上げて、それを口にすることは無意味ということも言っているのではないでしょうか。

◎スマホはバカ製造機
 テレビを聞いていたら(仕事をしながらなので、画面を止めて耳だけで聴いています)スマホで赤ん坊をアヤすアプリを使って、赤ん坊を泣き止まさせるのと、専門の保母さんが泣き止まさせるのとドッチが早いかというのをやっていました。その後のキャスターとゲストの対談で次のようなのがありました。

ゲスト     赤ん坊は泣くのが仕事なんだから、こんなアプリは止めてもらいたい。
キャスター  もともと、世の中はアナログが基本なのだから、そちらにもどして欲しい。
ゲスト     スマホなんか見てたらバカになるよね。
キャスター  昔ガレー船で、船底で懸命に櫂をこいでいるのに、船上では華やかで、楽しいパーティーをやっているようなものだ

 特にガレー船については、プログラムを作るのを仕事にしているので同感しますが、これは単なるユーザーでも、操作方法が分からないときの苦労はスッカリ忘れて、楽しそうに操作しているのですから、事実上ガレー船状態と言えないことはありません。
 実際、そのトライ&エラーの面倒な時間は半端じゃないくらい長いのですが、話題としても面白くないし、みんな自分の責任として早く忘れることにしているようです。本当はアプリ側の責任も大きいんですけど。

 ある街で電車を降りて、目印の小学校を捜していて、前から歩いてきた家族づれの人に聞いたら、スマホをポケットから出して捜し始めたのには驚きました。また、わが母校のキャンパスに行って?館はどこでしょうかと二人連れの女性に聞いたら、やはりスマホを参照し始めたのにも驚きました。
 今は何でもかんでもスマホを参考にするんだなということを実感しましたが、果たしてスマホで正しい知識が得られるのでしょうか。
 まず何のために知識が必要なのでしょうか。自分を取り巻く事象のあり方を正しくとらえるために、目の前の疑問を解決する必要があります。つまり全体を理解するために当面の部分について調べているのです。全体を理解するという思考は、自分の持ってる全知識を分類し、各々の重要性を確認し、正しい関連付けを行って、自分の次の行動の規範にしようといることに間違いはありません。重要なのは、全体像であり、目の前の知識はそのほんの手段にすぎません。
 全体像を得るにはまず自分で絶えず考えること、それでは足らないので、何といっても現在考えてるテーマに関する本を読むことです。本は全体の中からそのテーマについてまとめていますので、その本質を知るのに大いに助けになります。次の方法としてそのことについて経験したり、深く考えた人に話しをよく聞くことです。
 これと同じことをパソコンのネット上で得ることは不可能です。どうしても知識が断続的なものになってしまうのです。
 よく言われることですが、カーナビをつけて車を運転していると道を覚えません。カーナビなしの状態で地図帖を見ながら、必至に地図の全体像を組み立てていくことによって、地図と自分の持つ景色が組み合わせが頭に入り、道を覚えていくことになるのだと思います。
 それと同じようにスマホからの知識だけでは、それを自分の全体像の中に取り込み、身に付いた知識になることはありません。

 スマホのタブレット機械コントロールに関する開発に2年半以上かけましたが、その終わった日にWINDOWSタブレットに1万数千円の格安版が出たという宣伝メールが入り、すぐそのWINDOWS版の開発を始めることとし、インターネットでその方法論のサーチにかかりました。しかし未だ未開発の領域なので、確立した方法論のまとめは、どこにもなく、自分の全知識を使い、ネット上の断片的な知識をまとめて全体像を得るのに、本を一冊書くくらいのエネルギーを必要としました。頭の中で実際、本を一冊まとめるのと同じような作業になるのですが、ひさし振りに39.5℃の知恵熱が出ました。風邪だと思って寝ている夜中に、「ああ、これは知恵熱だ!」と思い、翌朝にはケロッとしていました。

 

    

  A15g002_2 解説

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