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2010年10月25日 (月)

第二則・百丈野狐

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    二  百丈とキツネ

百丈さまのお説教には、ひとりの老人が、みなと教えをきいていた。みながさがれば、老人もさがる。ある日さがらずにいるので、坊さまがきく、「そこに居るのは、何びとじゃな?」
老人、「いや、人ではございません。むかしカショウ仏のころ、この寺に住み、書生から、「えらい修行をした人も、因果に落ちますか?」ときかれ、「落ちない!」と答えたために、五百代キツネにされました。なにとぞ坊さまのおくちぞえで、キツネからぬけますよう。」そこできく、「えらい修行の人も、因果に落ちましょうか?」
坊さま、「因果にたがわぬ!」
老人はその言葉で悟り、おじぎをして、「私はもうキツネからぬけて、裏山にいます。どうかお坊さま、おとむらいをねがいます。」
坊さまは世話役に板を鳴らさせ、食後に葬式だとふれた。一同ふしぎがる。「みんな元気で、病室に居る者もないのに、なぜなんだろう?」
食後になると、坊さまはみなをつれて、裏山の岩の下に行き、ツエでキツネの死体をひき出し、それを火葬にした。
坊さまは晩の説教で、いわく因縁を話す。すると黄蘗が、「その人はひとこと返答しそこねて、五百代キツネの身となったが、ことごとくたがわねば、何になりますかな?」
坊さまがいう、「こっちにこい。話してやろう。」 黄蘗は近よるなり、坊さまをひっぱたいた。坊さまは手をたたいて笑い。「毛唐は赤ヒゲだが、赤ヒゲの毛唐も居ったか!」

無門がいう---------因果に落ちねば、なんでキツネになろう?因果にたがわねば、どうしてキツネからぬけよう?もしこの点にシカと目がつけられたら、前世の百丈もたのしい五百代であったとわかる。

 歌に--------- 
    落ちず、たがわず、
    ともにサイの目。
    たがわず、落ちず、
    たがいにちがい。

〔註〕カショウ仏とは、シャカより前の仏。黄蘗は百丈の弟子。

---------- 思い出すこと ----------

 この公案の”坊さまは手をたたいて笑い。「毛唐は赤ヒゲだが、赤ヒゲの毛唐も居ったか!」”の部分はどういう意味なのでしょうか。

 今話題のAKB48のメンバーがクイズ番組に出ていて、経歴に早稲田大学現役とあったので、一緒にテレビを見ていた娘に「早稲田大学の学生が何もAKBのアイドルグループに入ることはないのに」と言ったところ、「早稲田の学生がAKBになったのではなく、AKBのメンバーが早稲田に入ったのだからいいじゃない」と言い返してきたので、なるほどと思いました。
 随分前の話、新東宝という会社の社長の大蔵貢が、社内の女優を妾(メカケ)にしていたということで週刊誌やスポーツ誌で問題になったとき、「女優を妾にしてはまずいかも知れないが、妾を女優にして何が悪いんだ」と言って、世間がそれで妙に納得したことがありました(チョッとの時間差なのでしょうが)。

 この公案の「毛唐は赤ヒゲだが、赤ヒゲの毛唐も居ったか!」の部分の論理と、この2つの話の考え方が何か符合するような気がします。
「AKB(某)は早大生だが、早大生のAKB(某)も居ったか!」となり、前者は受動的なAKBで、後者は能動的なAKBということになります。

 この公案の主題の方は、禅のいう’大自由’は決して瓢箪の川流れのような’因果’と無関係な心境ではなく、差別知を含んだ実生活に即したものであることを示しています。

 A15g002 解説

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コメント

 仏教の最終目的は究竟涅槃と言い、色(生死)にも、空(涅槃)にも止まらないことです。前百丈和尚は「因果に落ちず」と答えて、空を取ったので野狐に堕ちたのです。五百年間、風流(空)の中に居たと言うのは、このことを指します。
 因果に落ちる、因果に昧されないと議論することを野狐禅と言います。

投稿: 下山寛裕 | 2011年2月14日 (月) 00時03分

 ご投稿ありがとうございます。
 五百年間、'風流(空)'の中に居たと言うのは初耳です。公案の中では’狐’になっていたと言っています。
 世の中にはこの狐のように因果に落ちないで飄々と世間から超越しているつもりの人間がたくさんいます。それも大きな迷いなのですが。
 自分も若い頃は、空でもなく無でもなく有でもないと言うような本が好きで、随分読みましたが、今は根気もなくなり、そういう高名な僧の著書は一体何を言ってるんだろうか、分からないと正直に思うようになりました。

投稿: kuutame | 2011年4月10日 (日) 10時26分

ご投稿を読み直しましたが、’前百丈和尚は「因果に落ちず」と答えて’のところを、’老人は「因果に落ちず」と答えて’とすれば(勘違い?)全く正しいと思い直しました。
 色(生死)を差別智、空(涅槃)を平等智に対応すると考えれば、全くその通りでした。
 また’空’や’無’の羅列が始まったと思ってしまいました。
 失礼しましたm(__)m

投稿: kuutame | 2011年5月15日 (日) 10時19分

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