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2010年9月18日 (土)

第四十一則・達磨安心

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       四十一 達磨安心

         ダルマの心静め

 ダルマさまがすわっていると、二祖さまが雪のなかでウデを切り、「わたしはまだなやんでいます。心を静めてください。」
 ダルマ、「心をだせ、静めてやろう。」
 二祖、「さがしても、どうも見つかりません。」
 ダルマ、「もう静めてやったぞ」

  無門がいう---歯っ欠けの異人おやじ、はるばる海を越えて、わざわざやってきたが、よけいなおセッカイというもの。しまいには弟子をひとり見つけたが、これまた片輪者だった。へへっ、「三之助、四の字知らず」だ!

 歌に---
    ダルマのおさとし、
    事件を起こし。
    今はテンヤワンヤ、
    火もとはおぬし。

---思い出す話---

  東陽片岡のマンガ                                     
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 東陽片岡自身、漫画の中では家でオナラとか鼻くそほじりとかばっかりしている人間として登場します。そういう正直な自己観察や、徹底した世の中観察を見ていると何だか宗教的な感じがしてくるのですが、果たして彼はお寺の子で、宗_1_2教的な場面も漫画に時々登場します。

 彼の漫画に少なくとも2回は右のように家をただ支えている男が登場します。特に宗教的では有りませんが、いったいこれは何のでしょうか。別に面白くないので、最後の落ちらしいものもありません。
 サラリーマンが家のローンを払おうとして毎日必死に働いている姿を現しているのか、あるいは老師から公案を与えられて一心不乱にその問題を拈提している姿を現しているのでしょうか。
 水木しげるは、雑誌’怪’の中で霊的人間_2_2シリーズの漫画を書いていて、”人間は誰でも予知等の霊的能 力をもっているのだが、食べるためのお金を稼ぐためにあまりに時間と体力をとられてそれを失っているのではないか”というようなことを言っています。私は霊的能力なるものは殆どないので、ただそれについては想像をするだけですが、まったく今日の食を得るために膨大な時間を取られていることはたしかです。

 もっと不思議な宗教的と思える画面が登場して目を見張ることが多いのですが、なんと直接的に沢木興道師や達磨大師が登場してきて_2_3驚かされます。
 沢木師の場合は、ある檀家に行った時に、便所を新しくしたので、最初の人間としてお清めをして頂きたいと頼まれて、喜ばれることならと、金隠しにヨッコラショと跨ったという話として載っています。

 達磨大師については面壁中に慧可が 臂を切って、入門を申し込んだ話 を載せていてこれがなかなか面白いので、一応3コマを選んで掲載します。
 特に2コマ目には笑ってしまいますが、こういう笑いは東陽の漫画では珍しい部類に入ります。
 二祖の慧可は、雪舟の有名な絵にもあるように、自分の臂を断ち、それを差し出してダルマ師に弟子入りを頼んだといわれています。
 でも日本人なら本当かしらと思_1います。昔野球の巨人軍の吉田接骨医が、自分の骨を折って高名な医者に見せて技術を盗んだという話しは聞いたことがありますが、達磨大師は名声はあったかも知れませんが、インドから中国に海路で来たばかりだし、実際のところ自分が真理を得られるかどうか全くの未知数なのに、そんな腕を切断するようなことを本当にするのかと疑いたくなります。左腕がないことは座禅に差し支えることも考えられますが、なにしろ千三百年くらい前に片田舎でおこったことで、そう_2記録されているのだからそうなのだろうと思うしかありません(多分、臂の 筋肉を切って、弓を引いたり、ケンカや格闘技ができないようにしたことを、中国の白髪三千丈式で’断臂’と表現したのではないでしょうか)。
 これを真剣に疑っている文献は見たことがないので、疑ってかかる人はよほどの変わり者ということになりますが、東陽片岡はその素直な日本人の気持ちをそのまま表現 しています。

 釈迦に会ったら釈迦を殺し、祖師(達磨)にあったら祖師を殺すととはこのことではないでしょうか。

 この話は、無門関第四十一則・達磨安心の中にそのまま”達磨面壁シ、二祖雪ニ立チ臂ヲ断ッテ云フ、弟子心未ダ安カラズ。乞フ師、心ヲ安ンゼヨ”と書かれています。_4
 この公案の答えはともかく、無門 は「解説」の中で達磨を”歯っ欠けの異人おやじ、はるばる海を越えて、わざわざやってきたが、よけいなおセッカイというもの”と言っていますし、二祖慧可を「謝三郎不識四字」と言っています。文字もよめない謝三郎(平凡な漁子や農夫)ということらしく、不識四字とは日常使用している銭の上に書いてある四文字が読めなかったということのようです(達磨の歯は、インドからの渡航以来の迫害によって欠けていたとされますがそう考えると、漫画は東陽片岡の知識の精度をあらわしていますし、ヒゲが生えているのも第二則・百丈野狐や第四則・胡子無鬚の内容と附合します)。

 この無門の特有な逆説的な表現や、東陽の漫画の内容が正しいかどうかは別として、達磨や慧可を神のような人間としてではなく一人の生き生きした人間としてとらえたいものです。

  以下おまけ

  2  東陽片岡の漫画が好きで、初期の頃の作品を除けば大体全部持っているつもりです。漫画は限定部数が少なくチョッと油断すると、すぐ絶版となり書店から消えてしまうのであわてることがあります。特に「お三十路の町」3巻を全部持っているのは古本屋から苦労して捜しただけに自慢です。
 ’大好きな漫画家’と書きたいところなのですけれど、最近は’風俗探訪’の「やさぐれ煩悩ブルースのように内容がきわどいという理由だけではなく、同じことの繰り返しで最後まで読み通すのが大変で途中で投げ出してしまっているのもあって’大好き’と書くのは少し躊躇されます(普通の生活編を含め漫画なのに内容が濃いので読むのに時間がかかります)。

  2_2彼の漫画は大体、十条あたりの貧乏人がベースになっているらしく、とにかく生活臭がいっぱいの貧乏人がたくさん登場します。悪いことはしないけど、生きるために拾ったものを道に並べて売ったり、すぐ喧嘩するかと思えば、少しお金がある人にすぐお世辞をいってお追従笑いをしたりします。
彼の漫画を読んでると、そうだよなあ、日本人は今街中や電車の中などで気取って立っているけど、本当はこの程度なんだよなあ、って思ってしまいます。
 実際に住んでる人は怒るかもしれないけど、あの辺(山手線の上の三角帽子の周辺)はなんだか物価は安くて、かなり前の話ですが、野菜炒め定食が城南地区では450円位したときに田端付近で食事した時に250円くらいだったのには驚いたのを覚えていますし、今は中流の私の友人が子供の頃、山谷から南千住の6畳一間+2畳の借間に引越したとき今で言えば田園調布に越したような気がしたといっていたのを思いだします。

 東陽片岡の漫画を読んでると一昔前の庶民がいっぱい出てくるわけですが、実は一昔前でなく、今の日本人だってそんなに変わってはいない、同じ庶民が表面上きれいに着飾って、裕福そうにしているだけなんじゃないかと思います。変わったのは格好だけで、中身は同じで、人情味が薄くなってる分人間としては返って貧しくなっている可能性もあります。

 先日、原宿を通る機会があったのですが、ウンカのごとき数の若者がキラキラと着飾って歩いていました。’お金もないのになあ’とつくづく思いました。外人は渋谷をクレージーと言いますが、原宿は+スチューピッドと言えます。

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